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Friday, October 1, 2021

「横綱は負けたら引退…大鵬親方の言葉は重かった」…白鵬の引退記者会見の一問一答(全文) - 読売新聞オンライン

「横綱は負けたら引退…大鵬親方の言葉は重かった」…白鵬の引退記者会見の一問一答(全文) - 読売新聞オンライン

 大相撲で史上最多45度の優勝を果たし、9月30日に現役を引退し年寄「間垣」を襲名した元横綱白鵬(36)が1日、師匠の宮城野親方(元幕内竹葉山)と東京・両国国技館で現役引退の記者会見を行った。間垣親方となった白鵬の記者会見の一問一答(全文)は以下の通り。

     ◇

 宮城野親方 本日は白鵬の引退、並びに間垣襲名に、報道陣の大勢の方にご出席いただきありがとうございます。白鵬もこれから頑張って、若い衆の後進の指導にあたって、しっかりと協会のために、頑張ってくれると思っております。これからも協会のために、多くの力士を育て上げて、皆様方に貢献出来るように頑張っていく所存でございますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。本日はどうもありがとうございました。

 白鵬 本日は足元の悪い中、お集まりいただき、誠にありがとうございます。私、白鵬、引退させていただくことになりました。今後、年寄間垣を襲名し、後進の指導をさせていただきます。20年、現役中は皆様に大変お世話になりました。そして活躍の場を与えていただきました日本相撲協会に感謝しております。本日はありがとうございます。

 ――お疲れさまでした

 白鵬 ありがとうございました。

 ――引退記者会見の席に座ってどんな思いか。

 白鵬 大変緊張しています。そして、ほっとした気持ちでいっぱいです。

 ――これまで何度も会見は行ってきたが、今までとは違う形の会見。思いは違うか。

 白鵬 その通りです。

 ――引退は、長い間戦ってきただけに重い決断だったと思う。どのように決め、いつ決断したのか。

 白鵬 引退を決めたのは名古屋場所中の10日目で決めました。

 ――場所中に決めたのは、どんな思いだったのか。

 白鵬 去年の8月に手術をしまして、またコロナ感染になり、そしてまた3月に再び右膝の手術をした。進退をかける場所、最後の場所(名古屋場所)も、膝が言うことを聞かなくなり、そしてこの場所は10勝、2桁勝利が私の目標でありました。初日で必死の相撲で勝ち、そして若手との一番一番、決して簡単な取組はなかったと思います。その10勝の目標を達成した時に宿舎に戻り、親方はじめ部屋の皆さん、裏方に「今場所で引退させていただきます」と伝えました。

 ――迷いはなかったか。

 白鵬 今思えば、右膝のことを思えば、迷いはなかったと思います。

 ――名古屋場所は初日から10連勝で来て、優勝も見える中での決断。まだいけるという気持ちはなかったか。

 白鵬 もうやっぱり膝のことを思えば、なかったと思います。

 ――奥さん、子どもたちに伝えた時はどんな反応だったか。

 白鵬 その日には連絡をしました。奥さんはやっぱり残念がってましたけど、子どもたちからは「頑張って欲しい」という声がありました。

 ――もっとやってほしいという声か。

 白鵬 はい。

 ――それに応えることは出来なかったか。

 白鵬 そうなりましたね。

 ――モンゴルのお母さんをはじめ、兄弟の皆さんへの連絡はどうだったか。

 白鵬 母に電話した時、「よく頑張ったな」と。「体が大事ですから」ということでした。

 ――21年間土俵に上がり続け、今振り返ってどんな思いか。

 白鵬 話せば長くなると思いますけど、本当に早いような感じがします。

 ――少々長くてもいいのでお話をしてくれないか。

 白鵬 ありがとうございます。

 ――振り返って色々なことが思い浮かぶと思うが。

 白鵬 本当に相撲が大好きだな、幸せもんだなと思います。

 ――入門した時のことを思い出すか。

 白鵬 はい。

 ――日本に来て、すぐに相撲の世界には入れるかどうかも分からなかった頃のことを思い出して、どう感じているか。

 白鵬 今があるのはやっぱり、宮城野親方、師匠が私に声をかけてくれたおかげで、今があると思うので、この場を借りて師匠に感謝しております。

 ――ぎりぎりのところで相撲界に入ることができた。1日の違いがあったら今の白鵬の姿はなかった。

 白鵬 感謝の気持ちと、今後師匠の下で、一から親方として勉強して頑張っていければと思います。

 ――強くなっていった頃のことを思い出すと、どんな感触で横綱という地位にいったか。

 白鵬 今振り返れば、本当に親方が、師匠が優しくて、力士思いで、弟子思いで、本当に感謝しています。その親方が上がり座敷にいるだけで、親方に褒めてもらいたい一心で稽古に励んでおりました。その思いは関取になり、横綱、大関に昇進していくことにつながったのかなと思います。

 ――いつも準備運動に時間をかけて、もう土俵に入ってもいいという中でもまだ準備運動をしていた。稽古への思いはどうか。

 白鵬 やっぱり体が細く、大きくしないといけないという時期もありましたし、早く強くなりたいという時期もありましたけど、その辺はやっぱり師匠の考えが全て当たったし、合ったような感じがします。

 ――常に大きな目標を立てながら戦ってきたように見える。目標についてはどう思ってここまで来たのか。

 白鵬 大相撲に入る時には横綱になりたいという夢はありましたけれども、45回優勝したいという目標は立ててはなかったと思います。ひとつひとつの積み重ねがこの結果につながったのかなと思います。

 ――今、数々の大きな記録をどう感じているか。

 白鵬 やっぱり師匠の稽古、その基本の大切さを守ってきたことが勝利につながったのかなと思います。

 ――横綱として900勝にあと1勝だった。そこへの未練はないか。

 白鵬 そうですね。本当は名古屋場所後に引退発表したいという気持ちがありましたけど、やっぱり相撲協会に報告する、それを優先しておりました。その気持ちでいっぱいです。

 ――14年間綱を張り続けた。綱の重みは今どう振り返るか。

 白鵬 横綱に昇進した頃は勢いもありましたし、うれしいという気持ちがありましたけれども、右も左も分からない時に大鵬親方と出会ったことをこの場を借りて感謝しています。その大鵬親方に、「横綱というものを宿命の中で頑張らないといけない。負けたら引退」という言葉をかけられ、32回優勝した昭和の大横綱のこの言葉は重かったです。それから横綱として3年、5年、8年、10年頑張りたいという気持ちになりました。

 ――負けたら引退という大鵬の言葉が何度も浮かんでくることはなかったか。

 白鵬 ありました。特にこの6場所休場というのは大変重いものがありました。

 ――師匠へうかがいたい。今どんな思いか。

 宮城野親方 名古屋場所の時に見た時に、本人が稽古を終わった後に脚を冷やしたり、そういうのがもうずっと続いていたんですよね。要するに寝ている以外はほとんど機械をつけて脚を冷やしたり。その姿は今回初めてだったものですから、これ以上相撲取らせることは出来ないなと私も思いました。それまでは本当に、3年4年くらい前に脚のケガをして、前に出る相撲がなかなか取れなくなってきまして、それで本当にどうすればいいかと考えながらやっていたんですが、本人は「頑張ってやります」と言って(相撲を)取っていた。でも、その治療がだんだん増えてきて、今回はもうこの状態では無理だなというのがはっきり分かるような状態まで我慢していたような気がします。

 ――大横綱のそのような状態を見るのは師匠としてもつらかったのではないか。

 宮城野親方 つらかったです。ほとんど寝る前もトレーナーとか色んな方が来て2人がかりでマッサージしたり、色々として、それで寝ていたような状態でしたから。そこまで体が悪いんだとびっくりしましたね。

 ――2000年の年末に入門が決まって初めて部屋に迎え入れた頃はどんな力士だったか。

 宮城野親方 その時は175センチの62キロという小さい体で、この子がどこまで強くなるのか心配したぐらいでした。その後6か月間で75キロまで太らないと相撲界を去らなければいけないと、そのためにどうしようかと思った時に稽古をさせないで、この子のためだったら食べて寝かせて、最後はどうなるか分からないけれども、努力させて受かったらいいなという気持ちがありました。それで75キロまで太って受かることができたんですよね。それからは稽古に対しても、人が言わなくても(するようになった)。僕が今まで記憶に残っていることは、稽古をやるなと言ったことはあるんですが、やれと言ったことは1回もないんですよ。逆に止める側だったんですよね。あまりにもやり過ぎるから、「もういいからやめなさい」ということは何回もありました。

 ――どんな弟子だったか。

 宮城野親方 準備運動とかそういうものに対しては1番だと思います。今までに力士を30何人、(部屋に)入れてやってきましたけれども、こういう若い衆は初めて見ました。稽古に対しては本当に真面目な子で努力もしましたし、自分が偉くなろうと思った時には人の2倍、3倍、番付が上だろうが関係なくしっかり稽古をやってきたと思います。特に横綱になってすぐの時は、よく大関の稀勢の里関や日馬富士関を捕まえてよく稽古やっている姿を見ました。2人で1時間くらいぶっ通しで、稽古を日馬富士関とやっていたことも覚えております。それだけよく稽古をやったなという気持ちはあります。

 ――白鵬へ。稽古は好きだったか。

 白鵬 たぶん正直に言えば稽古を好きな人はいないと思うんですけど、でもやっぱり強くなりたい、恩返ししたいという気持ちがあったものですから親方の言う通りに。親方に褒めてもらいたい、見てもらいたい一心でやっておりました。

 ――数々の不祥事や東日本大震災と、大変な中で力士の中心にいた。

 白鵬 様々な問題はありましたし、それを経験したことが私の財産になったと思う。それを生かしてこ今後の後進指導に生かしていきたいと思います。

 ――白鵬杯(少年相撲大会)も設立した。これからの子どもたちへの思いはどうか。

 白鵬 (自分が)26歳から始まって、この大会がもう10年になりますけど、既に大会で活躍した子どもが入門し、自分とも対戦し、場所でも負けましたし、大会の花は咲いているのかなと思います。そして、大相撲を目指す子どもたち、そして若手力士は、まず基本を大事にし、型を作ること。そして型ができたときに、型を破ること。まさに型を持って型にこだわらない。そうすれば必ず強くなっていくんじゃないかなと思います。

 ――少し厳しい質問をする。横綱審議委員会(横審)をはじめ、横綱白鵬に対しては厳しい意見があった。どう受け止めていたか。

 白鵬 やっぱり横綱になれた頃は自分の理想の相撲の『後の先』を追い求めた時期もありました。最多優勝(回数)を更新をしてからケガに泣き、自分の理想とする相撲が出来なくなり、横審の先生方の言葉通りに直したいという時期もありましたし、それを守った場所もあったと思います。だけどまた、度重なるケガがあり、理想とする相撲が出来なくなったというのは反省していますし、自分自身も残念に思っています。

 ――最強の横綱だった自分にしか分からないつらさはあったか。

 白鵬 やっぱり、途中つらい部分はありましたけど、綱を長く張ることで何かできるんじゃないかと思いました。それが白鵬杯で、子どもたち、また世界の子どもたちに相撲に興味を持ってもらいたい。現役で続けていきたいという思いはそこにあったと思うし、最多優勝の記録を更新した時、目標を失う、夢を失うという寂しさ悲しさがあったもんですから、やっぱり目標が大きくあればあるほど、将来大相撲を目指す子どもたちが頑張っていくんじゃないかという思いで、一生懸命頑張ったつもりです。

 ――長い間支えてくれた家族への思いは。

 白鵬 私が出会った多くの方々が応援してくれたおかげでここまで来られたと思いますし、本当に感謝の思いでいっぱいです。そして近くで奥さんと子どもたちが支えてくれたことで、ここまで来られたことは間違いありません。強い男の横には賢い女性がいるとのことですので、この場を借りて妻に感謝しております。

 ――多くの相撲を取ってきて、記憶に残る取組いくつもあると思うが、一つだけ選ぶとすると何か。

 白鵬 たくさんありますので、私は一つは選べません。二つにしたいと思っています。(番付を)上がってきて上位で壁に当たった時の、最初で最後の金星という横綱朝青龍関に勝った一番(04年九州場所)と、そして何と言っても、双葉山関の69連勝(にあと少し)の時に負けた、稀勢の里関(10年九州場所)だと思います。この二つを挙げたいと思います。

 ――10年の九州場所で稀勢の里関に負けた一番を今でも思い起こすことがあるか。

 白鵬 あの負けがあるからここまで来られたというのはあると思います。

 ――師匠へ。どんな指導者になってもらいたいか。

  宮城野親方 協会とかそういう人の見本になるような。やっぱり若い衆のために一番の教えをしてほしいというのがありますね、色んな面で引っ張っていく、そういう気持ちになってもらえたらいいかなと思っています。見本になって貰いたい、若い衆の。その中で自分と似たような素晴らしい力士を作ってもらえたら、協会のためにも頑張って貰いたい、そう思っております。

 ――どんな親方になっていこうと考えているか。

 白鵬 宮城野親方、師匠のおっしゃるように優しさと弟子思いの親方になっていきたいなと思います。

 ――母国でも引退に驚いていると思う。モンゴルの方々へメッセージをお願いします。

 白鵬 父を愛し、また自分を愛し、応援してくれたことが、今日、また結果につながったと思うので、モンゴルの人々に感謝の気持ちでいっぱいです。

 ――日本のみなさんへも。

 白鵬 本当に私を育ててくれた。そして私が出会った方々の応援があるからこそ、この20年間頑張れたと思いますし、その方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

 ――土俵に忘れてきたもの、思い残しはないか。

 白鵬 はい、全部出し切りました。はい。

 ――最後の相撲となった名古屋場所の千秋楽で土俵に上がるときに額をつけていた。あのときどんな思いで土俵に上がり、何を考えていたのか。

 白鵬 呼出に名前を呼ばれ、これが最後の一番だと思い、土俵にこの20年間本当に支えてくれてという感謝の気持ちを伝え、上がりました。

 ――引退の引き金となった膝の状態について、医者からどう言われているのか。

 白鵬 この半年で2回の手術を受け、またコロナに感染しまして、その中でリハビリと稽古、トレーニングを続けで、膝も悪化したとこもありました。そして医師からは「私がやることは全部終わりました。次また右膝を痛めた場合は人工関節になる」と。そういう報告を受けました。

 ――名古屋場所10日目で限界だったのか。

 白鵬 10日目を乗り越えたときに、これであと5日間取り切れる(と思った)。やっぱり15日間全うして引退したいという気持ちもありましたし、出来るものなら優勝して引退したいという気持ちがあったもんですから、10日目に師匠はじめ、みなさんに伝えました。

 ――14年間横綱だった。改めて、横綱とはどういう存在か。

 白鵬 やっぱり土俵の上では手を抜くことなく、鬼になって勝ちに行くことこそが横綱相撲と考えてきました。その一方で、周りのみなさんや横審の先生方に、最終的にその期待に応えることができなかったかもしれません。

 ――名古屋場所後に照ノ富士が横綱に昇進し、秋場所で優勝した。照ノ富士関への思いはあるか。

 白鵬 名古屋場所で肌で感じ、後を託せるなと感じました。本来ならば名古屋場所後に引退という形でいきたい思いはありましたけど、照ノ富士関の横綱昇進のこともありますし、またオリンピック、パラリンピック(もあった)。また9月場所前にという気持ちもありましたけど、部屋からコロナ感染もありまして、ここまで、今日までになってしまいました。本当に若手力士が力をつけてきたのは名古屋場所でも15日間感じましたし、バトンタッチというか後を託せると思うし、ぜひともまた照ノ富士関に頑張ってもらいたいなと思います。

 ――横綱になって良かったと思えることは何か。

 白鵬 横綱というより、この大相撲と、相撲と出会ったことが、私の全てだし、そしてそれを私を選んでくれた師匠と出会ったことに感謝ですし、相撲から離れれば私は何もできないものでありますので、本当にこの20年、大相撲には、相撲には感謝しています。

 ――時に厳しいことをいわれてきた力士人生だったが親方としてどう生かしていくか。

 白鵬 自分の経験を生かし、親方として、弟子たちに、人に優しく自分に厳しく、義理と人情を持った力士に育ってもらいたいなと思います。

 ――白星を重ねてきた横綱が一番悔しかった一番は。

 白鵬 先ほどの思い出の一番というところでありますけど、まあ二番言いたいってとこでもありましたけど、やっぱり稀勢の里関に63連勝で敗れた一番だと思います。その一番があるからこそ、63連勝にふさわしい相撲を取らなきゃいけない、恥ずかしくない相撲を取らなきゃいけないという思いでここまで来られたと思います。

 ――横綱として守り続けてきたものはあるか。

 白鵬 横綱大関というのは相撲協会、大相撲の看板力士でもありますし、そして横綱に昇進してからの14年間は、自分に勝つことが一番大変な思いではありましたけど、横綱に昇進するのも大変なことでありましたけど、それを14年間守り続けたということは、自分を褒めたいなと、そういう気持ちでいっぱいです。

 ――15歳で入門したとき、ぎりぎりで宮城野親方に縁がつながった。今は相撲に限らず若い世代が色んなことに挑戦している時代。若い世代にメッセージをお願いします。

 白鵬 先ほどと同じことになっていくと思うんですけど、やっぱり基本を大事にして、まずは型を作って、その型が出来上がったときに型を破る。まさに型を持って型にこだわらない。これが出来ていけば、必ず強くなっていくんじゃないかと思います。私も相撲人生の中では、たくさん技がある人はひとつも怖いことがなかったです。型を持った人間が一番怖かったです。

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2021-10-01 10:06:00Z
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