大野倫氏と言えば、沖縄水産時代の1991年の夏の甲子園の準優勝投手。九州共立大を経て外野手として巨人に入団、ダイエーでもプレーした。
大野氏は高校野球史を語るときに欠くことができない野球人でもある。1973年生まれ、イチロー、松中信彦、小笠原道大、三浦大輔、石井一久などと同学年。1991年夏の甲子園では、大会屈指の好投手として地方大会から1人で投げ続けたが、実はその年の5月にヒジを損傷、それを押して決勝戦まで投げぬいた。
決勝では大阪桐蔭に敗退したが、沖縄に帰ってから右ヒジの剥離骨折がわかり、手術をするも投手を断念した。日本高野連の牧野直隆会長(当時)はこれを問題視し、甲子園大会前の投手のメディカルチェック導入を推進した。
今に至る高校野球の「投手の酷使」「球数制限」の問題は、大野倫氏の負傷に端を発するといってもよいのだ。
大野氏の悲劇は多くのメディアが報じている。筆者も何度か記事にした。毎年沖縄に行くたびに、大野氏に話を聞いているが、今回は、もう少し踏み込んだ話を聞きたいと思った。
「たっくるす」という言葉を使ったら……
――一部のメディアは、大野氏が高校を卒業後、栽監督を「ぶっ殺してやる」と語ったと報じました。しかし、実際の大野氏は栽弘義氏が2007年に亡くなるまで親交を保ち、没後も遺族と交友があります。果たして栽監督と大野倫氏の「師弟関係」は、本当はどんなものだったのでしょうか?
「"ぶっ殺す"報道のもとになったのは、僕が九州共立大1年で神宮大会に出た時に品川プリンスホテルで受けたインタビューでした。その時に僕は"たっくるす"という言葉を使ったんです。大阪弁でいう"しばくぞ"みたいなニュアンスで、軽い冗談みたいな言葉なんですが、"どういう意味"と聞かれて"ぶっ殺す"みたいな意味です、と言ったんです。軽い意味だったのですが、それが独り歩きしてしまった。
僕は栽監督の気持ちが十分にわかっていましたから、感謝こそすれ、怒りの感情を持つことなんかない。当時はまだ大学1年生で、インタビューにも慣れていなかったので、そういうことになってしまったんです」
――そもそもヒジを骨折するまで投げぬくに至ったのは、どういう心の動きがあったからなのですか?
2021-03-23 21:00:00Z
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